窓の外はすっかり明るくなって、雀の声ばかりが大きくなっている。雨はやんだが、どんよりとした雲が低く立ちこめて、なんだか憂鬱な気分だった。それでも山根さんと会う約束をしたから仕方ない。知人に紫陽花と菖蒲のきれいなところがあると教えられ、山根さんと最寄の駅で待合わせをした。そこはもと源氏の名門平賀家の屋敷跡であり、桜、花菖蒲と紫陽花、紅葉と四季おりおりの草花が楽しめるそうだ。

電車を下り待合わせの北口に立って、「どんな紫陽花なんだろう、バレーボールみたいな紫陽花かな」と言うと、彼女は微かに笑って頷いて、「もう、バカなんだから」と言う。たわいない話に夢中になっていると、ふいに背後から肩をたたかれた。ふり向いて、僕はその場で固まってしまった。山根さんと小学生くらいの女の子が手を繋いで、その横に女性が立っていたのだ。

「こちら菊地さん。とてもいい人なんだ」と、山根さんはすごく不自然に照れながら紹介した。山根さんと菊地さんが交わす、ほんのわずかな視線に特別な意味が含まれていることを悟った。マジかよ。いい人って。しかも子供まで連れてくるとは、どうなってんだ。僕は呆れた顔をひたすら隠して、普段の演技をしながら自分の彼女を紹介した。

僕は長谷山寺と文字を刻んだ石門のあたりを見上げた。黒い曇が流れて、ぽつぽつと雨が落ちたり、風が吹き荒れたりして、どんでもない日和だった。それでも5月の風は夏の匂いを感じられ、松や杉の参道をまっすぐ歩く。朝が早いわけでもないのに商店街は閑散として、周りは人が歩いていないし、佃煮などの土産屋は閉まっている。休日なのに何故だろう。彼女にそのことを言うと、「ねえー」と彼女は首を傾げた。

しばらく歩くと、正面に朱塗りの山門が見えた。その先に緑の葉が風にわさわさとゆれていた。がらんとした境内。歩いている人の姿がない。今にも降りそうな空の下で、僕たちだけが一万坪の起伏に富んだ境内を一周した。紫陽花は剪定されて、わずかに葉が残るばかりで、池の水は抜かれて菖蒲の小さい球根が植えてあった。

僕は地蔵や仏像の前で、なぜか落ちつかない気持ちで風景をぼんやり眺めた。整然とひっそりしていて、誰かに見られているような視線を感じた。僕は何かに追われるように歩く。
「いやー、いいところだねえ」菊地さんと子供の手をつないで陽気に歩く彼は、心にもないことを言った。紫陽花も菖蒲も咲いてなかった。時期が早すぎたのだ。五重塔と建物や墓碑の見学にきたようなものだった。いやー、競歩みたいな速度で歩いたんだから、何も見ないで一周したのかもしれないな。

寺門を出たところにうどん屋があった。観光名物という旗が風で千切れんばかりに動いていた。だいたい観光名物にうまいものなしというけど、値段が安いので、そこで遅い昼食をすることにした。5人で座敷に座って、それぞれ食べたいものを注文をした。

お茶を飲みながら、釣りの話をしていると、突然、菊地さんは子供の頭をごつっと音をさせて叩いた。僕は、あっけにとられて何が起きたのか分からなかった。菊地さんは腫れぼったい目をして、どことなく憮然として見えた。山根さんは「いつもこんな感じなんだよ」と平然と言った。いつもって、どういうことなんだろう。母は何か気にくわないことがあると子供を叩くのか。子供は口元を歪めて、バツの悪い顔をして下を向いていた。うどんと天丼のセット、うまかった。彼女もうまいと喜んでいた。うどんは手打ちでシコシコ、天ぷらはカラリと揚がっていた。


「あれってさ、どういうことだろう。一緒に住んでるのかな。友人の家って、彼女のことか」
彼女は小さく鼻を鳴らして、「関係ないじゃん」と言いながら、ベンチに腰かけている僕の頭に、何かの種子みたいなのをふりかけた。
「あ、よせよ、汚ねええなぁ」
僕が頭を手で払うと、白く光るものがふうっと飛んでいった。追いかけるふりをすると、歓声を上げ、走りまわる彼女。きまぐれに、激しく吹く南風に枝がゆられて、葉のこすれ合う音と彼女の笑い声がきこえてきた。山根さんと駅で別れたあと、僕たちは小さな公園に寄って、体で風を受けることを楽しんでいた。

コメント

ふたつ星
2009年5月18日2:37

運命は、本人にも分からないわけで、罪はないのじゃないのかな。
だとすると、人にできるのは、ただがんばる、だけなわけです。

かくの
2009年5月18日5:55

そうですねー。自分でも未来がどうなっていくのか分かりません。
選択したのは彼だから、ただ、がんばってほしいなー。

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