藤木が初めて彼女を見たのは、母の後を追うかのように父が亡くなった年だった。空虚の心に悲しみと無常を感じた日々を過ごしていた。埋めることのできない寂しさに自制心を失いかけたこともあった。
その頃から藤木は女性がこちらを見ていることに気づいた。場所は十字路だったり、駐車場の反対の出入口だったりした。何れにせよ、青いマフラーをした女性がこちらを見ているとしても、自分には関係のないことだと藤木は思った。
ある満月の晩だった。その日は何となく冴えなかった。夜中に仕事を続けていることが体内バランスをくずし、情緒的に不安定な気分にさせたのだろう。神経組織は過敏になり、すぐに消失してしまう通行人の不快な行動もノイズとして蓄積された。
いつものように車を誘導し、出入口に戻ろうとして、藤木はふと足をとめた。誰かが自分を見ている気がしたのである。横を向いたとき、藤木は一瞬ぞっとなった。青いマフラーをした女性が目の前に立っていた。藤木は動けなかった。ただ女性を見つめた。その愛らしい唇、輝く瞳、月に浮かぶ表情は美しかった。彼女は微笑んで頬を赤くした。そして横に首をかしげてお辞儀をしたのだ。
そうだったのかと藤木は思った。彼女を見つめる藤木の感情は時が広がっていくのを感じた。さまざまな感情が奥底に湧き上がり渦まいた。どんなときも彼女は藤木ひとりを見つめていたのである。雨の日も雪の日も彼女の姿を感じていた。藤木の心に宇宙を感じた。宇宙との一体感とはこんな感じなんだろうか。
藤木の心に大きな足跡を残した。来る日も仕事の励みになった。心の支えになった。彼女は藤木の前に現れ挨拶をすると何も言わず去っていった。季節は冬の到来を知らせた。木枯らしが吹き、防寒着でも寒さは身に沁みる。そんなときも彼女は藤木の前に現れ微笑んだ。藤木が仕事のときは必ず彼女が来てくれる訳でもない。彼女が来ない日もある。そんな日は色々な理由を考え、仕事にも身が入らなかった。
もっと近づきたいと思った。挨拶を交わすだけでは何の進展もないのだ。そこで藤木は自分がもっとも大切にしている写真を渡すことにした。興味のない人が見れば、ただの鳥の写真である。写真の鳥はコウライウグイスといって旅鳥だ。日本海側の舳倉島や対馬で毎年数少ない旅鳥として観測される。
旅鳥というのは、日本より北で繁殖し日本より南で越冬する鳥のことである。羽を休めるため北上と南下のときに日本に立ち寄る。めったに内陸には入ってこない。内陸で見られるのは何十年に一回の確率だ。この鳥が秋ヶ瀬公園の周辺に何十年振りに観測された。そのときに撮った写真だった。その写真を見ると、いまでも興奮してくる。わずか体長二十六センチ程度の黄色い体が大きく輝いていた。その写真と共に手紙を添えることにした。何度も書き直した手紙を読み直した。
「前略、突然のお手紙をお許し下さい。これは毎日のように秋ヶ瀬公園へ鳥の観察に行き、九年前に撮影した写真です。ツグミよりも少し大きくて、後頭に黒帯があり、羽は写真のように美しい黄色をしています。高麗鶯は中国、朝鮮、台湾などで生まれ、そして日本より南へ越冬する旅鳥です。鶯とは同じスズメ目ですが、コウライウグイス科に分類されています。鳴き声が鶯のように良い声なのでウグイスと名前がついたそうです。あなたが自分の前に現れたとき、この写真を撮影したときと同じ感動を感じました。何十年に一度の確率で高麗鶯を見たとき、自分はそれを必然だと思いました。必然のチャンスが訪れたのだと考えました。それから九年後の今、自分はあなたに出会いました。」
藤木は写真と手紙を封筒に入れ、肌身離さず持ち歩いた。用意万端のときは現れないものである。彼女は何日も藤木の前を通らなかった。冷たい雨が降った。防寒着の上に合羽は小さくて着られない。藤木は防寒着のまま仕事をした。次第に雨は防寒着の中に滲みてきた。自分は一体こんなところで何をしているのだろう。こんなところで雨に濡れ彼女を待っている。そう考えたら、胸が哀しみで一杯になった。体を小刻みに震わせ一滴の涙が流れた。涙と仕事をしている自覚は雨に消された。
翌日は雲ひとつなく青空が広がった。日中は家でごろごろとして、夕方から仕事にでかけた。いつものように仕事をしながら、藤木は昨日の思考回路が切れた自分を情けなく思った。夜空を仰ぐと月が大きく見える。ちょうど月の部分に穴があるように見えた。「マルコヴィッチの穴」のように7と1/2階があって、そのフロアにある穴に入り彼女の脳に続いていたらどんなにいいだろうと思った。
どのくらいの運命を月は支配しているのだろう。太陽のおかげで生命が誕生した。それに比べ月は不合理だ。月は無意識から生じる直感や創造性を有しているが、いつも太陽の影で月は隠れている。藤木は仕事をしながら月を眺めた。月から目を離して横を見た藤木は声を挙げた。彼女が横に立っていたのである。どうしていつも彼女は突然現れるんだろう。月の神秘を見るように彼女の顔を見た。藤木は嬉しさと戸惑いで慌てた。
「あの、ちょっと、渡したいものがあるんだ」
藤木は胸ポケットに手を入れ封筒を出しかけた。
「えっ、私、いま急いでいるから」
彼女は随分とそっけない。
彼女はいつもと違い、初めての他人に声をかけられた表情をした。藤木は彼女によく似た人なのか、と彼女の顔をよく見た。どう見ても本人なのだ。とにかく、待ちに待った瞬間だ。封筒を彼女の手に押しつけた。彼女は封筒を手に持ったまま、何も言わずに歩いて行った。藤木は唖然として彼女の後姿を見送った。狐につままれた気持ちだった。いままでの好意的な態度は何だったんだろう。もしかしたら、自分は思い違いをしていたのだろうか。
仕事が終わり帰宅したが、その夜は色々と考えて眠れなかった。次の週の仕事は憂鬱だった。仕事を休もうかと思った。永遠に彼女の前に姿を見せなければ、今までのことはなかったことになる。しかし、そうではないと藤木は思い直した。もし仮にそうした場合、藤木の心には永遠に消せない感情を残す。どんなときも、彼女に対する感情を思い出し後悔するのだ。色々と考えても何一つ本当のことなどわからない。同じ考えを何度も繰り返しているうちに藤木は意識を失った。
星がきれいに瞬いている。今朝のニュースでしし座流星群が話題になっていた。子供の頃に流れ星を何度も見た。河川敷に寝転んで、天空の星を飽きずに見た。藤木は仕事をしながら、子供のときに見た無数の星を懐かしく思った。地上では無数の車が流れている。夜の道を通行人が忙しなく歩いている。
どこへ行くのだろうか。若い人、お年寄りの人、どの人も自分と同じ人間なのだ。自分は決まった習慣通りに動いているロボットだと思う。車が来れば自動的に体を動かし、通行人がくれば挨拶をする。意識的に選択しているつもりでも、体が勝手に反応して行動するロボット。
この世は夢ではないかと思った。彼女も夢の産物。さらに自分自身も存在すると信じ込んでいる幻想。そのとき辻から歩いてくる女性がいた。こちらを見ずに歩いてくる。藤木は彼女だと思った。「こんばんは」と彼女は藤木に声をかけた。顔を上げた彼女の表情は微笑んでいる。
藤木は騒音と雑音の中で音に麻痺していた。彼女の言葉に声を返さなかった。藤木は彼女の淋しそうな後姿をみて蒼白した。まずいと思った。いつもなら自分が声をかけて挨拶するのに、その日は彼女から声を発したのだ。どれだけの覚悟をして挨拶したことだろう。自分から挨拶しようと、彼女は勇気をだしたのではないか。こういうものなのだ。自分が待っていると現れないで、彼女が行動を起こすと仕事が忙しくなる。藤木は法則の悪戯を恨んだ。いつのまにか、きれいに輝いていた星が消えて、雨模様の空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。
その後、何度か彼女は現れた。しかし、こちらから挨拶をしても知らん顔をして通り過ぎてしまう。先日のことを怒っているのだろうか。意識的に挨拶しなかった訳ではない。確かに彼女のことを待っている気持ちはあるが、仕事を優先する義務感があって当然だ。そう藤木は自分自身に納得させようとした。起きてしまった結果に対して理由付けをする。それはいつも自分が正しいと証明する言葉を探しているにすぎないと藤木は思った。
いつものランドリーで、僕たちは長椅子に座っていた。紅い夕陽が僕たちの膝まで伸びていた。藤木は煙草に火をつけ、不味そうに白い煙を吐いた。
「もしかしたら、彼女は逆のことを考えているのかもしれない」
夕陽が眩しくて、僕は手にした缶コーヒーを見る。
「つまり、あそこで警備をしている人、自分に好意を持っている、と彼女が考えているわけさ」
僕の意見を聞いた藤木は、自嘲の笑みのようなものをもらした。
「君はどう思う?長年、彼女の行動を見て」
藤木の答えを待たずに、僕は言葉を継いだ。
「自分の考えに執着するあまり、人に対する判断がゆがんでいることがある。案外、自分が何も望まなくなったとき、他人の気持ちが見えるようになるものさ」
夕暮れの道に犬を連れたおばさんが歩いて行く。
「はっきりした態度を示したらいい。結果はどうであれ、彼女の気持ちが分かるんじゃないか。うまくいくといいな」
僕は彼の肩をポンと叩いた。最後まで何も言わなかった藤木の目が、眼鏡の奥できらりと光った。
「うん、どんな結果だろうと、自分自身のためにはっきりさせるよ。少しでも根拠があるのなら確かめる決心をしたよ」と藤木は大げさに言った。
暗かったランドリーに蛍光灯がついた。
1ヶ月が過ぎて、その後の様子を彼に聞いた。彼女に電話番号とメールアドレスの書いた紙を渡したが、一度も連絡がない。彼女の気持ちがはっきり分からない。たぶん、自分には興味がないのだろう。連絡先の紙を渡してから、彼のまわりには現れなくなった。そう藤木は笑いながら明るく言った。意識して彼を避けているのだろう。
風の強い日は制帽が飛ぶ。今日の相棒も藤木だ。先日、彼女が颯爽と自転車に乗って通ったと彼から聞いたが、僕は彼女が現われたことに気づかなかった。今日は猫一匹さえ見落とさないように注意しよう。それは、そうする理由が僕にあった。例の何者かが彼の部屋に侵入して掃除をするという「掃除屋さん事件」にしても、玄関から侵入した形跡はなく、窓にも異常はなかった。つまり彼の思い違いだったのである。
そんな彼だから、彼女に似た人が通って、それが彼女だと思い込んでいるところがある。そろそろ彼女が通る時間であることを藤木に確認した。夜11時を過ぎると数人の通行人と車が数台通るだけだ。いつも彼女が通る時間帯に注意して辺りに気を配った。暗闇から体格のよい老人が自転車で現われた。近所に住んでいるようで1日に2回は路上の真ん中を自転車で走行する。歩道を通るのを見たことがない。前後から車が来ても堂々と道路の中央を走行する。何事にも動じない強い心は立派だが、車にはねられては仕方あるまい。
零時になった。ついに彼女は通らなかった。勤務も終わり、お疲れ様と彼に声をかけた。すると藤木は興奮気味に言った。
「今日も彼女が通ったよ」僕はぞっとした。藤木はいったい何を見たのだろう。
その頃から藤木は女性がこちらを見ていることに気づいた。場所は十字路だったり、駐車場の反対の出入口だったりした。何れにせよ、青いマフラーをした女性がこちらを見ているとしても、自分には関係のないことだと藤木は思った。
ある満月の晩だった。その日は何となく冴えなかった。夜中に仕事を続けていることが体内バランスをくずし、情緒的に不安定な気分にさせたのだろう。神経組織は過敏になり、すぐに消失してしまう通行人の不快な行動もノイズとして蓄積された。
いつものように車を誘導し、出入口に戻ろうとして、藤木はふと足をとめた。誰かが自分を見ている気がしたのである。横を向いたとき、藤木は一瞬ぞっとなった。青いマフラーをした女性が目の前に立っていた。藤木は動けなかった。ただ女性を見つめた。その愛らしい唇、輝く瞳、月に浮かぶ表情は美しかった。彼女は微笑んで頬を赤くした。そして横に首をかしげてお辞儀をしたのだ。
そうだったのかと藤木は思った。彼女を見つめる藤木の感情は時が広がっていくのを感じた。さまざまな感情が奥底に湧き上がり渦まいた。どんなときも彼女は藤木ひとりを見つめていたのである。雨の日も雪の日も彼女の姿を感じていた。藤木の心に宇宙を感じた。宇宙との一体感とはこんな感じなんだろうか。
藤木の心に大きな足跡を残した。来る日も仕事の励みになった。心の支えになった。彼女は藤木の前に現れ挨拶をすると何も言わず去っていった。季節は冬の到来を知らせた。木枯らしが吹き、防寒着でも寒さは身に沁みる。そんなときも彼女は藤木の前に現れ微笑んだ。藤木が仕事のときは必ず彼女が来てくれる訳でもない。彼女が来ない日もある。そんな日は色々な理由を考え、仕事にも身が入らなかった。
もっと近づきたいと思った。挨拶を交わすだけでは何の進展もないのだ。そこで藤木は自分がもっとも大切にしている写真を渡すことにした。興味のない人が見れば、ただの鳥の写真である。写真の鳥はコウライウグイスといって旅鳥だ。日本海側の舳倉島や対馬で毎年数少ない旅鳥として観測される。
旅鳥というのは、日本より北で繁殖し日本より南で越冬する鳥のことである。羽を休めるため北上と南下のときに日本に立ち寄る。めったに内陸には入ってこない。内陸で見られるのは何十年に一回の確率だ。この鳥が秋ヶ瀬公園の周辺に何十年振りに観測された。そのときに撮った写真だった。その写真を見ると、いまでも興奮してくる。わずか体長二十六センチ程度の黄色い体が大きく輝いていた。その写真と共に手紙を添えることにした。何度も書き直した手紙を読み直した。
「前略、突然のお手紙をお許し下さい。これは毎日のように秋ヶ瀬公園へ鳥の観察に行き、九年前に撮影した写真です。ツグミよりも少し大きくて、後頭に黒帯があり、羽は写真のように美しい黄色をしています。高麗鶯は中国、朝鮮、台湾などで生まれ、そして日本より南へ越冬する旅鳥です。鶯とは同じスズメ目ですが、コウライウグイス科に分類されています。鳴き声が鶯のように良い声なのでウグイスと名前がついたそうです。あなたが自分の前に現れたとき、この写真を撮影したときと同じ感動を感じました。何十年に一度の確率で高麗鶯を見たとき、自分はそれを必然だと思いました。必然のチャンスが訪れたのだと考えました。それから九年後の今、自分はあなたに出会いました。」
藤木は写真と手紙を封筒に入れ、肌身離さず持ち歩いた。用意万端のときは現れないものである。彼女は何日も藤木の前を通らなかった。冷たい雨が降った。防寒着の上に合羽は小さくて着られない。藤木は防寒着のまま仕事をした。次第に雨は防寒着の中に滲みてきた。自分は一体こんなところで何をしているのだろう。こんなところで雨に濡れ彼女を待っている。そう考えたら、胸が哀しみで一杯になった。体を小刻みに震わせ一滴の涙が流れた。涙と仕事をしている自覚は雨に消された。
翌日は雲ひとつなく青空が広がった。日中は家でごろごろとして、夕方から仕事にでかけた。いつものように仕事をしながら、藤木は昨日の思考回路が切れた自分を情けなく思った。夜空を仰ぐと月が大きく見える。ちょうど月の部分に穴があるように見えた。「マルコヴィッチの穴」のように7と1/2階があって、そのフロアにある穴に入り彼女の脳に続いていたらどんなにいいだろうと思った。
どのくらいの運命を月は支配しているのだろう。太陽のおかげで生命が誕生した。それに比べ月は不合理だ。月は無意識から生じる直感や創造性を有しているが、いつも太陽の影で月は隠れている。藤木は仕事をしながら月を眺めた。月から目を離して横を見た藤木は声を挙げた。彼女が横に立っていたのである。どうしていつも彼女は突然現れるんだろう。月の神秘を見るように彼女の顔を見た。藤木は嬉しさと戸惑いで慌てた。
「あの、ちょっと、渡したいものがあるんだ」
藤木は胸ポケットに手を入れ封筒を出しかけた。
「えっ、私、いま急いでいるから」
彼女は随分とそっけない。
彼女はいつもと違い、初めての他人に声をかけられた表情をした。藤木は彼女によく似た人なのか、と彼女の顔をよく見た。どう見ても本人なのだ。とにかく、待ちに待った瞬間だ。封筒を彼女の手に押しつけた。彼女は封筒を手に持ったまま、何も言わずに歩いて行った。藤木は唖然として彼女の後姿を見送った。狐につままれた気持ちだった。いままでの好意的な態度は何だったんだろう。もしかしたら、自分は思い違いをしていたのだろうか。
仕事が終わり帰宅したが、その夜は色々と考えて眠れなかった。次の週の仕事は憂鬱だった。仕事を休もうかと思った。永遠に彼女の前に姿を見せなければ、今までのことはなかったことになる。しかし、そうではないと藤木は思い直した。もし仮にそうした場合、藤木の心には永遠に消せない感情を残す。どんなときも、彼女に対する感情を思い出し後悔するのだ。色々と考えても何一つ本当のことなどわからない。同じ考えを何度も繰り返しているうちに藤木は意識を失った。
星がきれいに瞬いている。今朝のニュースでしし座流星群が話題になっていた。子供の頃に流れ星を何度も見た。河川敷に寝転んで、天空の星を飽きずに見た。藤木は仕事をしながら、子供のときに見た無数の星を懐かしく思った。地上では無数の車が流れている。夜の道を通行人が忙しなく歩いている。
どこへ行くのだろうか。若い人、お年寄りの人、どの人も自分と同じ人間なのだ。自分は決まった習慣通りに動いているロボットだと思う。車が来れば自動的に体を動かし、通行人がくれば挨拶をする。意識的に選択しているつもりでも、体が勝手に反応して行動するロボット。
この世は夢ではないかと思った。彼女も夢の産物。さらに自分自身も存在すると信じ込んでいる幻想。そのとき辻から歩いてくる女性がいた。こちらを見ずに歩いてくる。藤木は彼女だと思った。「こんばんは」と彼女は藤木に声をかけた。顔を上げた彼女の表情は微笑んでいる。
藤木は騒音と雑音の中で音に麻痺していた。彼女の言葉に声を返さなかった。藤木は彼女の淋しそうな後姿をみて蒼白した。まずいと思った。いつもなら自分が声をかけて挨拶するのに、その日は彼女から声を発したのだ。どれだけの覚悟をして挨拶したことだろう。自分から挨拶しようと、彼女は勇気をだしたのではないか。こういうものなのだ。自分が待っていると現れないで、彼女が行動を起こすと仕事が忙しくなる。藤木は法則の悪戯を恨んだ。いつのまにか、きれいに輝いていた星が消えて、雨模様の空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。
その後、何度か彼女は現れた。しかし、こちらから挨拶をしても知らん顔をして通り過ぎてしまう。先日のことを怒っているのだろうか。意識的に挨拶しなかった訳ではない。確かに彼女のことを待っている気持ちはあるが、仕事を優先する義務感があって当然だ。そう藤木は自分自身に納得させようとした。起きてしまった結果に対して理由付けをする。それはいつも自分が正しいと証明する言葉を探しているにすぎないと藤木は思った。
いつものランドリーで、僕たちは長椅子に座っていた。紅い夕陽が僕たちの膝まで伸びていた。藤木は煙草に火をつけ、不味そうに白い煙を吐いた。
「もしかしたら、彼女は逆のことを考えているのかもしれない」
夕陽が眩しくて、僕は手にした缶コーヒーを見る。
「つまり、あそこで警備をしている人、自分に好意を持っている、と彼女が考えているわけさ」
僕の意見を聞いた藤木は、自嘲の笑みのようなものをもらした。
「君はどう思う?長年、彼女の行動を見て」
藤木の答えを待たずに、僕は言葉を継いだ。
「自分の考えに執着するあまり、人に対する判断がゆがんでいることがある。案外、自分が何も望まなくなったとき、他人の気持ちが見えるようになるものさ」
夕暮れの道に犬を連れたおばさんが歩いて行く。
「はっきりした態度を示したらいい。結果はどうであれ、彼女の気持ちが分かるんじゃないか。うまくいくといいな」
僕は彼の肩をポンと叩いた。最後まで何も言わなかった藤木の目が、眼鏡の奥できらりと光った。
「うん、どんな結果だろうと、自分自身のためにはっきりさせるよ。少しでも根拠があるのなら確かめる決心をしたよ」と藤木は大げさに言った。
暗かったランドリーに蛍光灯がついた。
1ヶ月が過ぎて、その後の様子を彼に聞いた。彼女に電話番号とメールアドレスの書いた紙を渡したが、一度も連絡がない。彼女の気持ちがはっきり分からない。たぶん、自分には興味がないのだろう。連絡先の紙を渡してから、彼のまわりには現れなくなった。そう藤木は笑いながら明るく言った。意識して彼を避けているのだろう。
風の強い日は制帽が飛ぶ。今日の相棒も藤木だ。先日、彼女が颯爽と自転車に乗って通ったと彼から聞いたが、僕は彼女が現われたことに気づかなかった。今日は猫一匹さえ見落とさないように注意しよう。それは、そうする理由が僕にあった。例の何者かが彼の部屋に侵入して掃除をするという「掃除屋さん事件」にしても、玄関から侵入した形跡はなく、窓にも異常はなかった。つまり彼の思い違いだったのである。
そんな彼だから、彼女に似た人が通って、それが彼女だと思い込んでいるところがある。そろそろ彼女が通る時間であることを藤木に確認した。夜11時を過ぎると数人の通行人と車が数台通るだけだ。いつも彼女が通る時間帯に注意して辺りに気を配った。暗闇から体格のよい老人が自転車で現われた。近所に住んでいるようで1日に2回は路上の真ん中を自転車で走行する。歩道を通るのを見たことがない。前後から車が来ても堂々と道路の中央を走行する。何事にも動じない強い心は立派だが、車にはねられては仕方あるまい。
零時になった。ついに彼女は通らなかった。勤務も終わり、お疲れ様と彼に声をかけた。すると藤木は興奮気味に言った。
「今日も彼女が通ったよ」僕はぞっとした。藤木はいったい何を見たのだろう。