人間は生まれたときから運命の人と結ばれているという、赤い糸の伝説を知っているだろうか。
中国が唐と呼ばれていた時代に偉固という人がいた。偉固は宋の街を歩いていた。その晩は満月が輝いて、何かが起こりそうな気配を感じた。満月がどうして不吉な前兆なのか。満月に生命は支配されていることを偉固は知っていたのだろう。ふと前を見ると、袋を背負った老人が分厚い本を読んでいるのを見かけた。そこで偉固は老人に聞いてみた。
「こんな真夜中に、何の本を読んでいるのですか?」
この暗さに文字が読めるのだろうかと偉固は不思議に思った。
「ええ、この本は月夜にしか読めない本なのです。人間の婚姻関係がぎっしりと書かれています。この本を参考に、将来結婚する男女をみつけて、袋に入った赤い糸を片足に結びつけるのが私の仕事なのです」
「そんな馬鹿なことがあるもんですか。それが本当なら証拠をみせてください」偉固は老人を笑った。
「それでは私について来てください」
そう言われた偉固は老人と一緒に街を歩いた。
「ほら、前から歩いてくる、あの女性。あの人があなたの未来の奥さんです」
突然、老人は偉固に告げた。
そう言われた偉固は前方をみた。盲目の老婦人が危なそうに歩いている。
「あのご婦人はおばあちゃんじゃないですか」
「いえ、そうではなくて、あのご婦人が抱いている子があなたの妻になるのです」
「まさか。だって、まだ子供ですよ」
偉固は半信半疑だった。何を思ったか、偉固は老婦人のそばによると、2歳くらいの女の子の額を小刀で少し切った。そして、その夜のことは忘れ去られてしまった。
それから十五年後、偉固は相州の宰相、王泰の娘を妻として迎えることになった。不思議なことに、その娘の額には小さな三日月の痕があった。その傷の由来を娘に尋ねると、それは十五年前、自分につけられた傷だと分かった。
満月の晩に現れる老人、男女の足に赤い糸を結んでいる。その老人の名は月下老人と呼ばれているらしい。満月の晩は散歩をしてみるといい。蒼い杖を片手に、本を読みながら歩いている老人をみつけたら、それは月下老人である。赤い糸の先を訊ねるがいい。きっと老人は教えてくれるだろう。あなたの運命の人を。
中国が唐と呼ばれていた時代に偉固という人がいた。偉固は宋の街を歩いていた。その晩は満月が輝いて、何かが起こりそうな気配を感じた。満月がどうして不吉な前兆なのか。満月に生命は支配されていることを偉固は知っていたのだろう。ふと前を見ると、袋を背負った老人が分厚い本を読んでいるのを見かけた。そこで偉固は老人に聞いてみた。
「こんな真夜中に、何の本を読んでいるのですか?」
この暗さに文字が読めるのだろうかと偉固は不思議に思った。
「ええ、この本は月夜にしか読めない本なのです。人間の婚姻関係がぎっしりと書かれています。この本を参考に、将来結婚する男女をみつけて、袋に入った赤い糸を片足に結びつけるのが私の仕事なのです」
「そんな馬鹿なことがあるもんですか。それが本当なら証拠をみせてください」偉固は老人を笑った。
「それでは私について来てください」
そう言われた偉固は老人と一緒に街を歩いた。
「ほら、前から歩いてくる、あの女性。あの人があなたの未来の奥さんです」
突然、老人は偉固に告げた。
そう言われた偉固は前方をみた。盲目の老婦人が危なそうに歩いている。
「あのご婦人はおばあちゃんじゃないですか」
「いえ、そうではなくて、あのご婦人が抱いている子があなたの妻になるのです」
「まさか。だって、まだ子供ですよ」
偉固は半信半疑だった。何を思ったか、偉固は老婦人のそばによると、2歳くらいの女の子の額を小刀で少し切った。そして、その夜のことは忘れ去られてしまった。
それから十五年後、偉固は相州の宰相、王泰の娘を妻として迎えることになった。不思議なことに、その娘の額には小さな三日月の痕があった。その傷の由来を娘に尋ねると、それは十五年前、自分につけられた傷だと分かった。
満月の晩に現れる老人、男女の足に赤い糸を結んでいる。その老人の名は月下老人と呼ばれているらしい。満月の晩は散歩をしてみるといい。蒼い杖を片手に、本を読みながら歩いている老人をみつけたら、それは月下老人である。赤い糸の先を訊ねるがいい。きっと老人は教えてくれるだろう。あなたの運命の人を。
大田道灌が狩の途中、にわか雨に遭遇した。路傍の農家に立ち寄って蓑を借りようと声をかけた。すると、ひとりの娘が黙って山吹の花を捧げた。その意味がわからず、怒った道灌は家臣に告げた。
「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだに なきぞかなしき」
歌の心で、実のと蓑をかけてお貸し申し上げる蓑がございませんと答えたのだろうと家臣は言った。貧しい暮らしでも、知的に慎ましき娘の気高さがうかがえる。この歌を家臣から教えられた道灌は飛鳥井雅世を師として和歌の道も励んだ。
室町中期の武将、大田道灌の像が荒川区日暮里駅前ロータリーと千代田区丸の内東京国際フォーラムにある。江戸を開いたのは大田道灌といわれている。それは権現さまを無視するための明治官僚の陰謀だろう。実際には権現様、徳川家康が天正十八年八月に江戸へ入国し江戸を開いた。東京の創始者としてかつぎ出された太田道灌は、むしろ埼玉県人で、その活躍は豆州、椎州、武州などにわたっていた。
「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだに なきぞかなしき」
歌の心で、実のと蓑をかけてお貸し申し上げる蓑がございませんと答えたのだろうと家臣は言った。貧しい暮らしでも、知的に慎ましき娘の気高さがうかがえる。この歌を家臣から教えられた道灌は飛鳥井雅世を師として和歌の道も励んだ。
室町中期の武将、大田道灌の像が荒川区日暮里駅前ロータリーと千代田区丸の内東京国際フォーラムにある。江戸を開いたのは大田道灌といわれている。それは権現さまを無視するための明治官僚の陰謀だろう。実際には権現様、徳川家康が天正十八年八月に江戸へ入国し江戸を開いた。東京の創始者としてかつぎ出された太田道灌は、むしろ埼玉県人で、その活躍は豆州、椎州、武州などにわたっていた。
黄泉の国 _____
2009-07古文
島根半島西北部の平田市猪目に猪目洞窟(いなめどうくつ)がある。これが死後の世界の入り口だといわれ、多くの怪談が伝えられている。
さてここに伊耶那岐の命が仰せられるには「愛しい妹の命が、たったひとりの子(一木)のために失ってしまった」とおっしゃって、伊耶那美の命の枕元や足元に腹這いになってお泣きになり、そのときの涙で現れた神は、香具山の麓の木の下においでになる泣沢女(なきさわめ)の神です。
お隠れになった伊耶那美の命は、出雲の国と伯耆の国の堺にある比婆の山にお葬り申し上げました。残された伊耶那岐の命は腰にお佩きになった十拳の剣を抜いて、命を失う原因となった御子の迦具土(かぐつち)の神の頸をお斬りになりました。その剣の先についた清らかな血は、岩に飛び散り、現れた神の名は、石柝(いわさく)の神、根柝(ねさく)の神、石筒(いわつつ)の男の神です。
次にその剣の元についていた血も岩に飛び散り、そこに現れた神の名は、甕速日(みかはやひ)の神、次に樋速日(ひはやひ)の神、次に建御雷(たけみかずち)の神の男の神、またの名を建布都(たけふつ)の神、またの名を豊布都(とよふつ)の神という神です。
次に剣の握りに集まった血が、手の指からこぼれ出して現れた神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神、次に闇御津波(くらみつは)の神です。この石柝の神から闇御津波の神まで合わせて八神は、御剣によってお生まれになった神です。
一木というのは、神を数えるときに柱といいますが、それと同じで子を木と表現したようです。人は土の中から植物のように生れたと考えられていました。
そののち、伊耶那岐の命は亡くなった伊耶那美の命をひとめ見ようと黄泉の国に追いかけます。伊耶那岐の命が黄泉の国の戸を開けて、「いとしい妹よ。あなたと作った国はまだ作り終わっていません。さあ、帰りましょう」と仰せになりました。
すると、それを聞いた伊耶那美の命は、「とても残念です。もっと早く迎えにきてくださればよかった。わたしは黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました。それでも、いとしいあなたが来てくれたのですから、わたしも帰りたいと思います。黄泉の国の神様に相談しましょう。その間、わたしを見てはいけません」と答えました。
伊耶那美の命が御殿の中に入ったまま長い時間が過ぎました。とても待ち遠しくて、伊耶那岐の命は左の耳に刺していた櫛の太い歯を1本折って、それに火をつけて殿の中に入りました。そのとき、火に浮かびあがった伊耶那美の命の変わり果てた姿がありました。体は腐りきって、無数の蛆が這いまわり、頭には大きな雷、胸に火の雷、腹に黒い雷、陰に盛んな雷、左手に若い雷、右手に土の雷、左足に鳴る雷、右足に跳ねる雷がおりました。
これをご覧なさった伊耶那岐の命は心臓がとまるほどに驚いて、伊耶那美の命を残してお逃げになりました。妹の伊耶那美の命は歪んだ表情で、「わたしに恥をかかせたわ」と言って、黄泉の国の魔女に追わせました。伊耶那岐の命は髪につけていた黒い木の蔓をとってお投げになったとき、それが野葡萄に生りました。魔女たちがその実を食べているあいだにお逃げになりました。食べ終わると、また追いかけてきたので、今度は右の耳に刺していた櫛の歯を欠いて投げると竹の子が生えてきました。それを食べている間にお逃げになりました。
その後、伊耶那岐の命の体にうごめいていた八つの雷と、たくさんの黄泉の国の軍人をそえて追わせました。伊耶那岐の命は腰にさげている長い剣を抜いて、うしろに振りながらお逃げになりました。黄泉比良坂の坂本までたどり着き、そこに生えていた桃の実を三つ投げると、みんな逃げていきました。そこで伊耶那岐の命は桃の実に、「お前がわたしを助けたように、葦原の中の国で暮らしている人たちが苦しんでいるので助けてほしい」と仰せになって、意富加牟豆美(おほかむずみ)の命という名を与えました。
とうとう最後には伊耶那美の命が追いかけてきましたので、黄泉比良坂の中ほどに大きな岩石で道をふさいで、石を境に二人は向かい合って別離の言葉を交わしました。「あなたがこんなことをするならば、私はあなたの国の人間を一日に千人殺してしまいます」そう、伊耶那美の命が仰いました。そこで伊耶那岐の命は、「あなたがそうされるのなら、私は一日に千五百人の人間を生ませてごらんになります」それで人間は一日に千人が死んで、千五百人が生まれるのです。こうして伊耶那美の命を黄泉津大神(よもつおおかみ)といいます。また、伊耶那岐の命に追いついたところから、道及きの大神といいます。黄泉の比良坂でふさいた岩石は、黄泉の入り口の大神といいます。そして、黄泉の比良坂は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか)のことです。(島根県東出雲)
2009-07古文
島根半島西北部の平田市猪目に猪目洞窟(いなめどうくつ)がある。これが死後の世界の入り口だといわれ、多くの怪談が伝えられている。
さてここに伊耶那岐の命が仰せられるには「愛しい妹の命が、たったひとりの子(一木)のために失ってしまった」とおっしゃって、伊耶那美の命の枕元や足元に腹這いになってお泣きになり、そのときの涙で現れた神は、香具山の麓の木の下においでになる泣沢女(なきさわめ)の神です。
お隠れになった伊耶那美の命は、出雲の国と伯耆の国の堺にある比婆の山にお葬り申し上げました。残された伊耶那岐の命は腰にお佩きになった十拳の剣を抜いて、命を失う原因となった御子の迦具土(かぐつち)の神の頸をお斬りになりました。その剣の先についた清らかな血は、岩に飛び散り、現れた神の名は、石柝(いわさく)の神、根柝(ねさく)の神、石筒(いわつつ)の男の神です。
次にその剣の元についていた血も岩に飛び散り、そこに現れた神の名は、甕速日(みかはやひ)の神、次に樋速日(ひはやひ)の神、次に建御雷(たけみかずち)の神の男の神、またの名を建布都(たけふつ)の神、またの名を豊布都(とよふつ)の神という神です。
次に剣の握りに集まった血が、手の指からこぼれ出して現れた神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神、次に闇御津波(くらみつは)の神です。この石柝の神から闇御津波の神まで合わせて八神は、御剣によってお生まれになった神です。
一木というのは、神を数えるときに柱といいますが、それと同じで子を木と表現したようです。人は土の中から植物のように生れたと考えられていました。
そののち、伊耶那岐の命は亡くなった伊耶那美の命をひとめ見ようと黄泉の国に追いかけます。伊耶那岐の命が黄泉の国の戸を開けて、「いとしい妹よ。あなたと作った国はまだ作り終わっていません。さあ、帰りましょう」と仰せになりました。
すると、それを聞いた伊耶那美の命は、「とても残念です。もっと早く迎えにきてくださればよかった。わたしは黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました。それでも、いとしいあなたが来てくれたのですから、わたしも帰りたいと思います。黄泉の国の神様に相談しましょう。その間、わたしを見てはいけません」と答えました。
伊耶那美の命が御殿の中に入ったまま長い時間が過ぎました。とても待ち遠しくて、伊耶那岐の命は左の耳に刺していた櫛の太い歯を1本折って、それに火をつけて殿の中に入りました。そのとき、火に浮かびあがった伊耶那美の命の変わり果てた姿がありました。体は腐りきって、無数の蛆が這いまわり、頭には大きな雷、胸に火の雷、腹に黒い雷、陰に盛んな雷、左手に若い雷、右手に土の雷、左足に鳴る雷、右足に跳ねる雷がおりました。
これをご覧なさった伊耶那岐の命は心臓がとまるほどに驚いて、伊耶那美の命を残してお逃げになりました。妹の伊耶那美の命は歪んだ表情で、「わたしに恥をかかせたわ」と言って、黄泉の国の魔女に追わせました。伊耶那岐の命は髪につけていた黒い木の蔓をとってお投げになったとき、それが野葡萄に生りました。魔女たちがその実を食べているあいだにお逃げになりました。食べ終わると、また追いかけてきたので、今度は右の耳に刺していた櫛の歯を欠いて投げると竹の子が生えてきました。それを食べている間にお逃げになりました。
その後、伊耶那岐の命の体にうごめいていた八つの雷と、たくさんの黄泉の国の軍人をそえて追わせました。伊耶那岐の命は腰にさげている長い剣を抜いて、うしろに振りながらお逃げになりました。黄泉比良坂の坂本までたどり着き、そこに生えていた桃の実を三つ投げると、みんな逃げていきました。そこで伊耶那岐の命は桃の実に、「お前がわたしを助けたように、葦原の中の国で暮らしている人たちが苦しんでいるので助けてほしい」と仰せになって、意富加牟豆美(おほかむずみ)の命という名を与えました。
とうとう最後には伊耶那美の命が追いかけてきましたので、黄泉比良坂の中ほどに大きな岩石で道をふさいで、石を境に二人は向かい合って別離の言葉を交わしました。「あなたがこんなことをするならば、私はあなたの国の人間を一日に千人殺してしまいます」そう、伊耶那美の命が仰いました。そこで伊耶那岐の命は、「あなたがそうされるのなら、私は一日に千五百人の人間を生ませてごらんになります」それで人間は一日に千人が死んで、千五百人が生まれるのです。こうして伊耶那美の命を黄泉津大神(よもつおおかみ)といいます。また、伊耶那岐の命に追いついたところから、道及きの大神といいます。黄泉の比良坂でふさいた岩石は、黄泉の入り口の大神といいます。そして、黄泉の比良坂は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか)のことです。(島根県東出雲)
島々の生成 _____
2009-07古文
ここに天の神の仰せで、伊耶那岐(いざなぎ)の命と伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に「この漂う国の基礎を作り固めなおせ」と、天の矛(あめのぬぼこ)を与え仰せつけられました。二柱の神は空中の階段に立って、その矛を指し下ろして描かれました。海水と泥をごろごろかきまわして引き上げたときに、その矛から滴り落ちる塩が積もってできた島は、淤能碁呂島(おのごろしま)です。その島に下りまして、霊能により柱を立て御殿をお建てになりました。
矛とは槍のようなものです。滴り落ちた塩が固まってできた島は、兵庫県三原郡南淡町の下に浮かぶ沼島が淤能碁呂島だと伝えられています。
ここで伊耶那美の命に「あなたの身体はどのようにできていますか?」とお尋ねなれば、「わたしの身体はできて、でき損ねたところがひとつあります」とお答えになりました。それを聞いた伊耶那岐の命は「わたしの身体は、できすぎて余っているところがあり、このわたしの余っているところと、あなたのでき損なったところを合わせて、国を生もうと思うがいかがだろう」と仰せになられました。
つまりそういうことです。
伊耶那美の命は「それは楽しそうです」とお答えになりました。「それならば、わたしとあなたと、この柱をまわり出会って結婚しよう」と仰せになりました。そう約束をして、「それでは、あなたは右から廻って、わたしは左から廻って出会うことにしよう」と廻りました。伊耶那美の命が先に「まあ、素敵な青年ですね」といわれ、後に伊耶那岐の命が「やあ、美しいお嬢さんですね」と仰いました。お互いに挨拶を交わした後に、「女性から先に言ったのではよくない」と仰いました。
何事もシチュエーションが大切ということです。女性から声をかけることがよくないのは、封建的な男尊女卑という時代的背景があったのでしょう。
されども結婚をして子水蛭子をお生みになりました。この子は葦の船に乗せて流しました。次に淡島をお生みになりました。この子も数に入りません。そこで二柱の神は相談して「今、わたしたちの生める子がよくない。天の神のところへ行って申し上げよう」とおっしゃって、共に参り上がって、天の神の仰せを伺いました。そこで天の神は太トに占いて仰るには「女性が先に物を言うのは相応しくない。還り戻って改めたまえ」と仰った。
子水蛭子はヒルのようによくない子というものですが、わが子を葦の船の乗せて流すなんて冷酷です。だけど心配にはおよびません。この子水蛭は西宮付近海上で漁師に救われます。やがて子水蛭は立派に育てられ蛭児尊となります。太トとは、古代の占いで、鹿の骨を焼いてヒビの入り方で占ったそうです。神も占いをしたんですね。
そんなわけで降りまして、また天の御柱をくるりとまわり、伊耶那岐の命が「やあ、美しいお嬢さんですね」といわれ、伊耶那美の命が後に「まあ、素敵な青年ですね」と仰いました。こうして結婚をなさって淡路の穂の狭別の島をお生みになりました。次に伊予の二名の島をお生みになりました。この島は体がひとつで顔が四つあります。顔ごとに名前があります。伊予の国を愛比売(えひめ)といい、讃岐の国を飯依比古(いいようひこ)といい、粟の国を大宜都比売(おおげつひめ)といい、土左の国を建依別(たけようわけ)といいます。
神が最初に作られた島は淡路島で、その次が四国なんですね。伊予の国(愛媛)、讃岐の国(香川)、粟の国(徳島)、土左の国(高知)となっています。四国には八十八ヶ所霊場があり、お遍路さんが巡拝することで有名です。白衣をまとい袈裟を首から胸に下げて、金剛杖をつきながら巡礼するわけです。なんでも弘法大師が修行した場所を巡礼することが起源だといわれています。徳島から始まり高知、愛媛、香川と時計まわりに巡礼し、最後に一番札所霊山寺へ、そして高野山にお礼参りするそうです。
次に隠伎の三子の島をお生みになりました。またの名を天の忍許呂別(おしころわけ)といいます。次に筑紫(つくし)の島をお生みになりました。この島も体がひとつで顔が四つありました。顔ごとに名前があります。筑紫の国を白日別(しらひわけ)といい、豊の国を豊日別(とよひわけ)といい、肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾の国を建日別(たけひわけ)といいます。
次に伊岐(いき)の島をお生みになりました。またの名前は天の狭手依比売(さでよりひめ)といいます。次に佐度の島をお生みになりました。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつ)をお生みになりました。またの名前は天つ御虚空豊秋津根別(みそらとよあきつねわけ)といいました。この八島を生んだので大八島国(おほやしまのくに)といいます。
隠伎の三子の島は隠岐島で筑紫の島は九州全体をさしています。伊岐の島は壱岐、佐度の島は新潟県の佐渡島、大倭豊秋津島は本州です。
それからお還りになるときに吉備の児島をお生みになりました。またの名は建日方別(たけひかたわけ)といいます。次に小豆島をお生みになりました。またの名は大野手比売(おおのでひめ)といいます。次に大島をお生みになりました。またの名は大多麻流別(おおたまるわけ)といいます。次に女島をお生みになりました。またの名は天一根(あめひとつね)といいます。次に知訶(ちか)の島をお生みになりました。またの名は天の忍男(あめのおしお)といいます。次に両児(ふたご)の島をお生みになりました。またの名は天の両屋(あめのふたや)といいます。吉備の児島より天の両屋まで合わせて六島です。
吉備の児島から女島までは瀬戸内海に浮かぶ小島。知訶と両児は五島列島と男女群島。これで国をお生みになるのは終わり、次に神々をお生みになります。
国を生み終えて、更に神をお生みになりました。お生みなされた神の名は大事忍男(おおことおしお)の神。次に石土毘古(いはつちびこ)の神、次に石巣比売(いはすひめ)の神、次に大戸日別(おおとひわけ)の神、次に天の吹男の神、次に大屋毘古(おおやびこ)の神、次に風木津別(かざもつわけ)の忍男の神、次に海の神、名は大綿津見(おおわたつみ)の神、次に水戸の神、名は速秋津日子(はやあきつひこ)の神、次に妹の速秋津比売(はやあきつひめ)の神をお生みになりました。合わせて十神です。
ここまできて、読むのが嫌になったことでしょう。とうに僕は書くのが嫌になっています。なんとか、この悪文をなんとかしてほしい。読み飛ばしてください。
この速秋津日子、速秋津比売の二神が河と海とわけてお生みになった神の名は沫那芸(あわなぎ)の神、沫那美(あわなみ)の神、頬那芸(つらなぎ)の神、頬那美(つらなび)の神、天の水分(みくまり)の神、国の水分の神、天の久比奢母智(くひざもち)の神、国の久比奢母智の神です。沫那芸の神から国の久比奢母智の神まで合わせて八神です。
次に風の神の志那都比古(しなつひこ)の神、木の神の久久能智(くくのち)の神、山の神の大山津見の神、野の神の鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名を野椎(のづち)の神という神をお生みになりました。志那都比古の神から野椎の神まで合わせて四神です。
この大山津見の神と野椎の神とが山と野にお生みになった神の名は、天の狭土(さづち)の神、国の狭土の神、天の狭霧(さぎり)の神、国の狭霧の神、天の闇戸(くらと)の神、国の闇戸の神、大戸惑子(おおとまどいこ)の神、大戸惑女(おおとまどいめ)の神です。天の狭土の神から大戸惑女の神まで合わせて八神です。
次にお生みになった神の名は、鳥の石楠船(いわくすぶね)の神、またの名を天の鳥船といいます。次に大宣都比売(おおげつひめ)の神、火の夜芸速男(やぎはやお)の神、またの名を火の?毘古(かがびこ)の神、またの名を火の伽具土(かぐつち)の神といいます。この子をお生みになったために伊耶那美の命は焼かれてご病気になりました。
そのご病気の中で、嘔吐からでてきた神は、金山毘古(かなやまびこ)の神と金山毘売(かなやまびめ)の神、屎からでてきた神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神と波邇夜須毘売の神、小便からでてきた神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神と和久産巣日(わくむすひ)の神です。この神の子は豊宇気毘売(とようけびめ)の神といいます。このような次第で伊耶那美の命は火の神をお生みになったためにお隠れになりました。天の鳥船から豊宇気毘売の神まで合わせて八神です。
どのような性格の神かも分からず、ただひたすら神が生まれました。そして、ひたすら書きましたが。
すべて伊耶那岐、伊耶那美のおふたりの神がお生みになった島は十四、神は三十五神です。これは伊耶那美の神がお隠れになりませんでしたときにお生みになりました。ただ意能碁呂島(おのごろ)はお生みになった子ではありません。また水蛭子(ひるこ)と淡島は数に入れていません。
2009-07古文
ここに天の神の仰せで、伊耶那岐(いざなぎ)の命と伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に「この漂う国の基礎を作り固めなおせ」と、天の矛(あめのぬぼこ)を与え仰せつけられました。二柱の神は空中の階段に立って、その矛を指し下ろして描かれました。海水と泥をごろごろかきまわして引き上げたときに、その矛から滴り落ちる塩が積もってできた島は、淤能碁呂島(おのごろしま)です。その島に下りまして、霊能により柱を立て御殿をお建てになりました。
矛とは槍のようなものです。滴り落ちた塩が固まってできた島は、兵庫県三原郡南淡町の下に浮かぶ沼島が淤能碁呂島だと伝えられています。
ここで伊耶那美の命に「あなたの身体はどのようにできていますか?」とお尋ねなれば、「わたしの身体はできて、でき損ねたところがひとつあります」とお答えになりました。それを聞いた伊耶那岐の命は「わたしの身体は、できすぎて余っているところがあり、このわたしの余っているところと、あなたのでき損なったところを合わせて、国を生もうと思うがいかがだろう」と仰せになられました。
つまりそういうことです。
伊耶那美の命は「それは楽しそうです」とお答えになりました。「それならば、わたしとあなたと、この柱をまわり出会って結婚しよう」と仰せになりました。そう約束をして、「それでは、あなたは右から廻って、わたしは左から廻って出会うことにしよう」と廻りました。伊耶那美の命が先に「まあ、素敵な青年ですね」といわれ、後に伊耶那岐の命が「やあ、美しいお嬢さんですね」と仰いました。お互いに挨拶を交わした後に、「女性から先に言ったのではよくない」と仰いました。
何事もシチュエーションが大切ということです。女性から声をかけることがよくないのは、封建的な男尊女卑という時代的背景があったのでしょう。
されども結婚をして子水蛭子をお生みになりました。この子は葦の船に乗せて流しました。次に淡島をお生みになりました。この子も数に入りません。そこで二柱の神は相談して「今、わたしたちの生める子がよくない。天の神のところへ行って申し上げよう」とおっしゃって、共に参り上がって、天の神の仰せを伺いました。そこで天の神は太トに占いて仰るには「女性が先に物を言うのは相応しくない。還り戻って改めたまえ」と仰った。
子水蛭子はヒルのようによくない子というものですが、わが子を葦の船の乗せて流すなんて冷酷です。だけど心配にはおよびません。この子水蛭は西宮付近海上で漁師に救われます。やがて子水蛭は立派に育てられ蛭児尊となります。太トとは、古代の占いで、鹿の骨を焼いてヒビの入り方で占ったそうです。神も占いをしたんですね。
そんなわけで降りまして、また天の御柱をくるりとまわり、伊耶那岐の命が「やあ、美しいお嬢さんですね」といわれ、伊耶那美の命が後に「まあ、素敵な青年ですね」と仰いました。こうして結婚をなさって淡路の穂の狭別の島をお生みになりました。次に伊予の二名の島をお生みになりました。この島は体がひとつで顔が四つあります。顔ごとに名前があります。伊予の国を愛比売(えひめ)といい、讃岐の国を飯依比古(いいようひこ)といい、粟の国を大宜都比売(おおげつひめ)といい、土左の国を建依別(たけようわけ)といいます。
神が最初に作られた島は淡路島で、その次が四国なんですね。伊予の国(愛媛)、讃岐の国(香川)、粟の国(徳島)、土左の国(高知)となっています。四国には八十八ヶ所霊場があり、お遍路さんが巡拝することで有名です。白衣をまとい袈裟を首から胸に下げて、金剛杖をつきながら巡礼するわけです。なんでも弘法大師が修行した場所を巡礼することが起源だといわれています。徳島から始まり高知、愛媛、香川と時計まわりに巡礼し、最後に一番札所霊山寺へ、そして高野山にお礼参りするそうです。
次に隠伎の三子の島をお生みになりました。またの名を天の忍許呂別(おしころわけ)といいます。次に筑紫(つくし)の島をお生みになりました。この島も体がひとつで顔が四つありました。顔ごとに名前があります。筑紫の国を白日別(しらひわけ)といい、豊の国を豊日別(とよひわけ)といい、肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾の国を建日別(たけひわけ)といいます。
次に伊岐(いき)の島をお生みになりました。またの名前は天の狭手依比売(さでよりひめ)といいます。次に佐度の島をお生みになりました。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつ)をお生みになりました。またの名前は天つ御虚空豊秋津根別(みそらとよあきつねわけ)といいました。この八島を生んだので大八島国(おほやしまのくに)といいます。
隠伎の三子の島は隠岐島で筑紫の島は九州全体をさしています。伊岐の島は壱岐、佐度の島は新潟県の佐渡島、大倭豊秋津島は本州です。
それからお還りになるときに吉備の児島をお生みになりました。またの名は建日方別(たけひかたわけ)といいます。次に小豆島をお生みになりました。またの名は大野手比売(おおのでひめ)といいます。次に大島をお生みになりました。またの名は大多麻流別(おおたまるわけ)といいます。次に女島をお生みになりました。またの名は天一根(あめひとつね)といいます。次に知訶(ちか)の島をお生みになりました。またの名は天の忍男(あめのおしお)といいます。次に両児(ふたご)の島をお生みになりました。またの名は天の両屋(あめのふたや)といいます。吉備の児島より天の両屋まで合わせて六島です。
吉備の児島から女島までは瀬戸内海に浮かぶ小島。知訶と両児は五島列島と男女群島。これで国をお生みになるのは終わり、次に神々をお生みになります。
国を生み終えて、更に神をお生みになりました。お生みなされた神の名は大事忍男(おおことおしお)の神。次に石土毘古(いはつちびこ)の神、次に石巣比売(いはすひめ)の神、次に大戸日別(おおとひわけ)の神、次に天の吹男の神、次に大屋毘古(おおやびこ)の神、次に風木津別(かざもつわけ)の忍男の神、次に海の神、名は大綿津見(おおわたつみ)の神、次に水戸の神、名は速秋津日子(はやあきつひこ)の神、次に妹の速秋津比売(はやあきつひめ)の神をお生みになりました。合わせて十神です。
ここまできて、読むのが嫌になったことでしょう。とうに僕は書くのが嫌になっています。なんとか、この悪文をなんとかしてほしい。読み飛ばしてください。
この速秋津日子、速秋津比売の二神が河と海とわけてお生みになった神の名は沫那芸(あわなぎ)の神、沫那美(あわなみ)の神、頬那芸(つらなぎ)の神、頬那美(つらなび)の神、天の水分(みくまり)の神、国の水分の神、天の久比奢母智(くひざもち)の神、国の久比奢母智の神です。沫那芸の神から国の久比奢母智の神まで合わせて八神です。
次に風の神の志那都比古(しなつひこ)の神、木の神の久久能智(くくのち)の神、山の神の大山津見の神、野の神の鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名を野椎(のづち)の神という神をお生みになりました。志那都比古の神から野椎の神まで合わせて四神です。
この大山津見の神と野椎の神とが山と野にお生みになった神の名は、天の狭土(さづち)の神、国の狭土の神、天の狭霧(さぎり)の神、国の狭霧の神、天の闇戸(くらと)の神、国の闇戸の神、大戸惑子(おおとまどいこ)の神、大戸惑女(おおとまどいめ)の神です。天の狭土の神から大戸惑女の神まで合わせて八神です。
次にお生みになった神の名は、鳥の石楠船(いわくすぶね)の神、またの名を天の鳥船といいます。次に大宣都比売(おおげつひめ)の神、火の夜芸速男(やぎはやお)の神、またの名を火の?毘古(かがびこ)の神、またの名を火の伽具土(かぐつち)の神といいます。この子をお生みになったために伊耶那美の命は焼かれてご病気になりました。
そのご病気の中で、嘔吐からでてきた神は、金山毘古(かなやまびこ)の神と金山毘売(かなやまびめ)の神、屎からでてきた神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神と波邇夜須毘売の神、小便からでてきた神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神と和久産巣日(わくむすひ)の神です。この神の子は豊宇気毘売(とようけびめ)の神といいます。このような次第で伊耶那美の命は火の神をお生みになったためにお隠れになりました。天の鳥船から豊宇気毘売の神まで合わせて八神です。
どのような性格の神かも分からず、ただひたすら神が生まれました。そして、ひたすら書きましたが。
すべて伊耶那岐、伊耶那美のおふたりの神がお生みになった島は十四、神は三十五神です。これは伊耶那美の神がお隠れになりませんでしたときにお生みになりました。ただ意能碁呂島(おのごろ)はお生みになった子ではありません。また水蛭子(ひるこ)と淡島は数に入れていません。
天地のはじめ _____
天地が誕生したときに、天にある高天原(たかまのはら)に現れた神の名前は、天の御中主(あめのみなかぬし)の神、高御産巣日(たかみむすひ)の神、神産巣日(かむむすひ)の神で、この造化三柱の神は、みな独神(配偶者をもたない独り神)でご出現なさって身を隠されてしまいました。
天の中心を司る日本の始祖神なのですが、高御産巣日の神と神産巣日の神は、これから先の話に登場なさいますが、天の御中主の神はお隠れなさったまま、二度とお姿をお見せしません。
できたばかりの国は、水に浮かべる脂のようにして、くらげのようにふわりと漂う時に、葦の芽のように萌えあがってご出現された神は、宇魔志阿斯詞備比古遅(うましやしかびひこぢ)の神、次に天の常立(とこたち)の神、この二柱の神も独神でありまして身を隠されました。
脂のような、くらげのような神だったのですね。葦の芽が出るように生れて、現れては消えるのですから、まったく得体が知れません。何かと神頼みをしてご利益があるのでしょうか。それで、ここまでが五柱の特別な天の神が生れたことになります。柱という数え方は神や死者を数えるときに使います。
次に現われた神は国の常立の神、豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も独神で身をお隠しになりました。次に現われた神は宇比地邇(うひぢに)の神、次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神、次に角杙(つのぐひ)の神、次に妹活杙(いもいくぐひ)の神、次に意富斗能地(おほとのぢ)の神、次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神、次に於母陀流(おもだる)の神、次に妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)の神、次に伊耶那岐(いざなき)の神、次に妹伊耶那美(いもいざなみ)の神。
このように次々と何の前触れもなく神が現れます。今あげた国の常立の神より妹伊耶那美の神までを神世七代と称します。国の常立の神と豊雲野の神の二柱は独神でそれぞれが一代、次の神を二柱合わせて一代とします。
たくさん神が登場してきました。宇比地邇の神からは、兄妹のように二柱で一代とするので十二柱が七代になります。
天地が誕生したときに、天にある高天原(たかまのはら)に現れた神の名前は、天の御中主(あめのみなかぬし)の神、高御産巣日(たかみむすひ)の神、神産巣日(かむむすひ)の神で、この造化三柱の神は、みな独神(配偶者をもたない独り神)でご出現なさって身を隠されてしまいました。
天の中心を司る日本の始祖神なのですが、高御産巣日の神と神産巣日の神は、これから先の話に登場なさいますが、天の御中主の神はお隠れなさったまま、二度とお姿をお見せしません。
できたばかりの国は、水に浮かべる脂のようにして、くらげのようにふわりと漂う時に、葦の芽のように萌えあがってご出現された神は、宇魔志阿斯詞備比古遅(うましやしかびひこぢ)の神、次に天の常立(とこたち)の神、この二柱の神も独神でありまして身を隠されました。
脂のような、くらげのような神だったのですね。葦の芽が出るように生れて、現れては消えるのですから、まったく得体が知れません。何かと神頼みをしてご利益があるのでしょうか。それで、ここまでが五柱の特別な天の神が生れたことになります。柱という数え方は神や死者を数えるときに使います。
次に現われた神は国の常立の神、豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も独神で身をお隠しになりました。次に現われた神は宇比地邇(うひぢに)の神、次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神、次に角杙(つのぐひ)の神、次に妹活杙(いもいくぐひ)の神、次に意富斗能地(おほとのぢ)の神、次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神、次に於母陀流(おもだる)の神、次に妹阿夜詞志古泥(いもあやかしこね)の神、次に伊耶那岐(いざなき)の神、次に妹伊耶那美(いもいざなみ)の神。
このように次々と何の前触れもなく神が現れます。今あげた国の常立の神より妹伊耶那美の神までを神世七代と称します。国の常立の神と豊雲野の神の二柱は独神でそれぞれが一代、次の神を二柱合わせて一代とします。
たくさん神が登場してきました。宇比地邇の神からは、兄妹のように二柱で一代とするので十二柱が七代になります。