薄暗い雲に覆われて雨が降っている。雨具をつけ、バイクを走らせると、驚くほど冷たい風が吹きつける。現場につくと、入社した新人の加藤君が舗道に立っていた。雨具の上だけ着ている彼に、「おはよう」と挨拶をすると、彼は自転車で来たからズボンが濡れたと言って、濡れたズボンの上に雨具のズボンを穿こうとしている。意味が分からなかった。

彼の運動靴を見て、「長靴、持ってないんだ」と訊くと、彼はどことなく憮然として黙っている。
「ひとつ、買えばいいじゃん。500円ぐらいだよ」
僕の履いてる長靴を見せた。
「でも、荷物になるから」と不服そうに言う。
そりゃー確かに、履かないで持ってくれば荷物になるよ。
「雨の日は、最初から履いてくれば」
「いや、最初から濡れてもいい靴を履いてくるから」と見当違いな返事が返ってきた。
なんだ、こいつ。僕は徐々に腹立たしくなってきた。

お客に対する礼儀作法と誘導の仕方を説明し、「入口はここだから」と彼に言って、僕たちの立つ位置を確認した。雨はやんだかと思えば、更に激しく降ったりして顔にふりかかる。雨の中でも、午前中からお客が増えだす。彼の行動をチェックしながら、車、お客を誘導しているとき、ふと、彼の姿が消えていることに気づいた。

しばらく待っても彼は戻ってこない。僕は仕事を中断して彼を捜しに行った。ゴミ置き場のところでうろうろしている彼をみつけ、「何してるんだい。加藤君」と声をかけた。すると彼は何も言わず、ふて腐れたように僕を見て、自分の立つ位置に戻っていった。変なやつ。彼を観察すると、落ち着きがなく、腰を屈めたかと思うと、また歩道にしゃがみ込んだりしている。いったい彼は何をしているのだろう。彼の合図が遅いから、車を誘導するのが遅れる。

やがて、辺りは薄い闇につつまれ店先に明かりが灯る。冷たい風に戸惑う紫陽花。しばらくして、彼が走ってくる。日焼けした顔に、歯だけが外灯に照らされて薄気味悪く光るから、それが鬼の牙に見え、まるで般若のようだ。僕は少し恐怖にかられる。

「この辺、ミルク売ってないかな。猫がいるんだ」
「えっ」と言ったまま、僕は絶句した。

どうやら、悲愴感を漂わせている彼は、猫が心配で仕方なかったらしい。猫の腹を満腹にするために、仕事を中断してミルクを買いに行きたいと言っている。猫をとるか仕事をとるか難しい選択だ。でも、来店するお客は待ってくれない。猫のためにミルクを買いに行くから、案内や誘導を待ってほしい、とお客に言って納得してくれるだろうか。それにミルクをあげても、それは一時しのぎで、僕たちが帰ったあとはどうするんだ。

「ここにないよ。それに仕事中だし」僕は冷たく言い放った。
その言葉に、彼は訳が分からないといった顔をした。やがて魚が死んだみたいな目つきで、口元を歪ませて戻っていった。

どんよりとした雲は、僕の心まで暗くさせる。どうせ僕は冷たい人間さ。冷静な判断で一時の感情に流されない。仕事が終わったら、何でも買ってあげればいい。なんなら君の家に連れていって世話をすればいいさ。南の空にある雲が黄色に明るくなった気がした。どうも雲の向こう側に月があるようだ。明日も雨なんだろうか。

また、彼が走ってくる。どうしたのか尋ねると、誘導灯のスイッチを押してないと点灯しないと言った。それはスイッチの接触不良だろう。よくあることだ。スイッチのところにテープを巻きつけてやった。彼は何も言わずに誘導棒を受け取ると走っていった。

数分して、彼がダダダダーとガンダムのように走ってくる。今度はどうしたのだ。はぁはぁ、息を切らして自分の自転車の前で止まると、彼は叫んだ。
「猫つかんで、噛まれちゃったー!」
僕は半ば呆れながら、「猫と戯れているからさ」と、喉元まで出かかった言葉をのみ込んだ。自転車の籠を覗きごそごそやっている。何度もこちらに来なくても、自転車を自分の立つ場所に持って行けばいいのだ。そう彼に言ったら、
「いや、邪魔になるから」
そういう問題か。天邪鬼なやつだな。

外灯に照らされて、鮮やかな紫陽花の花が雨の中で佇んでいる。仕事が終わってから、「おつかれさま」と声をかけ、猫はどうしたか訊いてみた。
「どこかにいっちゃったよ」
彼は寂しそうに呟いた。

コメント

ラクス
2009年5月28日21:22

【かくのさ~ん】

雨の中、お仕事お疲れ様っす。
お~新キャラ登場ですねw
しかも他の方ともヒケを取らない個性派(^^;
これからの彼に大注目っす。ワクワクしちゃぅ~

かくの
2009年5月28日21:31

どうも、ラクスさん。
おつかれさま。

不屈なほど頑固なやつで、協調性がまったくありません。
どうなっちゃうんだろう。

りいふ
りいふ
2009年5月29日2:02

長靴、昔と違って今は色々と可愛いデザインや、機能にとても優れたものが売ってますよね。加藤くんのポリシーには反したのかーぁ。
猫はどこに行ったんでしょうねぇ。

かくの
2009年5月29日8:57

おはよう、りいふさん。
そうそう、これ、長靴かな、と思うようなのがあります。
僕のは安い黒のゴム長です。そんなの履けないのかな。

子猫、つかまれたとき、身の危険を感じて、配電盤の草むらの奥に、それか、ゴミ箱の中、それとも、トンネル効果で、りいふさんのところかも。

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