くんくん

犬の声がした。遠吠えのような声がしているのに、犬の姿がない。辺りを眺めると、夫婦らしい人が台車を押しながら路上を歩き、その他に誰もいない。野良犬が路地を彷徨っているのかと思った。また、犬が吼えた。おっ、思ってもみないところに犬がいて、びっくりした。夫婦が押している台車の上に犬がいたのだ。

荷物みたいに台車に乗せられてどうしたの。怪我か病気でもしているのかな。犬の全身が見えたとき、そのみごとな肥満に驚いた。どこが足で、どこが首だか分からない。首や腹が異様に太っている。それで陸に上がった河童みたいに、歩けない犬を台車に乗せて散歩しているのか。あまりにも珍しいものを見たので、夫婦に声をかけてみたかった。

「わんちゃん、歩けないんですか？」そう訊いてみたかった。失礼かも知れないが、どうしても訊いてみたかった。つい、迷っているうちに夫婦は道を曲がってしまった。
病気なの？歩けないの？
なんだったの、あの、わんちゃん。

そんなことを考えていたら、コーヒーショップに着く。自動ドアがひらいた途端、はげしい勢いで押し寄せるタバコの煙に後ずさる。僕は鼻を押さえ店内に入る。一秒たりともいたくない気持ちで、ミラノサンドＡの持ち帰りを注文し、待つ間に店内を見回した。

火がついたまま灰皿に置かれるタバコ。くわえタバコで新聞を読み、コーヒーを飲む中年男。口紅のついた吸殻を灰皿に投げ込んで、すぐにタバコケースから1本出して火をつけるＯＬ。

天井に換気扇がついているが、それでも店内の煙を出すのに間に合わないようで、タバコの煙は充満している。店内の奥に禁煙席がある。でも、そこに行くには煙の中を歩かなきゃならないし、その禁煙席が煙を防御しているようにみえない。

パンを注文して待っているあいだに喉の痛みを感じた。ここで働いている店員は気の毒だな。いつもタバコの煙と戦いながら仕事をしているのだろう。パンやハムにもニコチンやタールがついてるんじゃないかと不安な気持ちで、袋を手に店から出た。くんくん、服の匂いをかぐとタバコの煙がした。